ジャカランダの似合う街・パースとアレルギー研究

長野県小児科医会会報掲載(平成8年11月6日)

 

1994年7月からこの3月までオーストラリアのパースにあるInstitute for Child Health Reserchでアレルギー疾患発症のメカニズムを研究する機会に恵まれました。

パースは日本人には馴染みの薄い街ですが、日本の7倍の広さをもつ西オーストラリア州の州都で、人口120万の国際色豊かな都市です。この街を知る人の多くは好意的な表現でパースを形容してきました。“太陽と緑の街”“世界で最も美しい街”“世界一孤立した街”・・・。スワン川(西オーストラリアの白鳥は真っ黒で、そのブラックスワンが生息していたことから名づけられたと聞きました)沿いに広がる緑豊かな町並みを、市の中心から程近いキングス・パークの高台から眺めることができます。パース周辺には山がなく、晴れた日は抜けるような青い空が広がり、信州育ちの私はその広さと太陽の輝きに驚きました。12月から3月までの夏は、ほとんどそのような毎日です。日本の高温多湿の夏は、大地を潤す雨の恵みの代償とパースでは傍観者のように考えていました。車を10分ほど走らせればインド洋に面したビーチに出られます。ここはサンセットコーストとも呼ばれ、夕陽のきれいな一帯です。夏が近づく11月になると、街の緑の中に淡い藤色の花が見られます。私は、このジャカランダ・トリーが好きでした。しかし、不思議なことに1年目はこの花の存在に全く気づかずにいました。異なる文化の中で、心の余裕がなかったのかもしれません。残念なことに、この淡い紫は写真で再現できず、実際にまた見る機会を待つしかありません。

西オーストラリアは、実は日本の戦後の経済成長と密接に関係のある地域で、日本は多くの鉄鉱石をここから輸入してきました。現在は天然ガスにも注目が向けられています。この地域には名の知れた観光地はほとんどありません。しかし、それは人手の入らない雄大な、時に驚くほどきれいな自然に出会える魅力になります。私はこの西オーストラリアの中で、明治時代から真珠採取の出稼ぎのために日本人がやって来たというブルームと、コバルトブルーの海がきれいな南氷洋に面したエスペランスの街が気に入りました。

私が通っていた研究所は西オーストラリア大学小児科学教室の建物とPrincess Margaret Hospital for Childrenに隣接する小児科関連の研究施設ですが、小児アレルギーについて免疫学、分子生物学、呼吸生理学、心理学などの多岐にわたる分野から研究が進められ、研究内容からみれば小児アレルギー研究所という色彩をもっていました。小児アレルギーの分野では世界屈指の研究所で、100人を越す研究者や学生の中にはヨーロッパからの留学生も多くみられました。印象的であったことは女性の研究者や学生が多く、彼女たちが非常にいい仕事をしていたことです。言葉の壁は最後まで克服することはできず、それは大きなストレスになりましたが、研究所の人たちの優しさを感じつつ研究生活を送れたことは幸運でした。

私はDivision of Cell Biologyに所属しておりましたが、ボスはPatrick G Holt教授といい、アレルゲンに対する免疫反応における樹状細胞やγδT細胞の役割を動物実験によって明らかにし、世界的に高い評価を受けていました。しかし、彼はアレルゲンに対する小児の免疫応答に強い興味があるようでした。動物実験の豊富なデータや臨床的事実から、小児期早期の抗原暴露によって引き起こされるT細胞応答がその後のアレルギー反応を決定すると考え、その免疫反応の特徴をサイトカイン産生の観点から明らかにするプロジェクトをもっていました。彼の考えていた世界的に増加するアレルギー疾患に対する最も効果的な治療戦略は、発症前に免疫応答をコントロールすることでした。私が何のつながりもなく、この研究所を留学先に選んだのは、このプロジェクトに惹かれたからです・・・。

私はTh反応に注目して研究を行ってきました。そして、アトピーのハイリスク児では環境抗原に対して乳児期早期からTh2反応がみられ、この時期にすでにアレルギー発症の準備が出来ている事実を知りました。もう1つの重要な課題は、幼児期後半に食物抗原に対するIgE反応が消失するメカニズムを解明することでした。それまでのその機序は不明でしたが、T細胞アネルギーやT-cell deletionという現象によってアレルゲンに反応するT細胞がこの時期に体内から消失することがわかってきました(一部は、Th2からTh1への変化もみられます)。しかし、この結論にたどり着くまでの1年以上は予備実験の繰り返しで、期待に反する結果に幾度か研究を投げ出したい気持ちになりました。研究は、目先の結果にしばられない、地道な努力の積み重ねであると改めて実感しました。私の行ってきたことはアトピーのこどもたちの予防・治療・管理にいくつかの科学的根拠を与えてくれると思いますが、研究結果は謙虚に判断し、臨床を重視する姿勢を続けたいと考えています。こどもたちとつき合う人間として、少しは自然環境について考えてみたいと思っていましたが、アレルギー研究を通してそれが実現しそうなのも1つの成果でした。

1995年は戦後50年にあたりました。日本はオーストラリアを攻撃したことのある唯一の国であり、オーストラリアの人たちの反応が気に掛かりました。この豊かな国土を手にした植民地政策は何だったのか、英語が国際語になりつつ現状は誰かの言った言語帝国主義ではないかとひがみっぽく対抗手段を考えていました。しかし、フランスの核実験が影響したのか、日本にはむしろ好意的でした。そして留学期間中を通して接した人たちは親切で優しい言葉をかけてくれました。身体障害者に対する優しい配慮も町のいたるところでみかけました。オーストラリアは白豪主義を放棄してから、多民族・多文化国家の道を歩み始めています。アジア地域という現実的環境の中で、アジアとヨーロッパとの橋渡し的な役割を担っていく可能性がこの国にはあるように思います。季節、歴史、国土、人口、産業、資源、国民気質・・・、オーストラリアと日本の違いは対照的です。故郷を離れて開拓を目指した人々は国旗にも描かれている南十字星をさまざまな思いで眺めたのに違いありません。夜この星を眺めると不思議と力が湧いてくるような気がしました。

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長野県上伊那郡箕輪町大字三日町969-3