南アルプスの女王と上伊那の地域小児医療

(上伊那医師会報2015.9月号)

 

今年の夏、台風11号の進路にやきもきしながら、私は7月19日を待っていた。どんな人にも一生のうちにやり遂げたいと思い続ける夢があり、それがたわいないささやかな願いだったりすることもある。私にとって、それは毎日仰ぎみるあの崇高で重厚な山の頂に立つことだった。

その日、まだ涼しさが漂う北沢峠を7時に出発し、展望のない原生林のなかを縫うように進んだ。山登りは、学生時代に白山には幾度も足を運んでいたが、それ以来であった。しかし、登り始めると不安はどこかへすっと消えていった。シラビソの樹林帯を進みながら、「シラビソの林床には次世代のための稚樹が控えていて、上の木が衰えて明るくなると成長を始めるんだ」という同行者の言葉に小児科医の姿を思い浮かべていた。五合目の“大滝ノ頭(おおたきのあたま)”を過ぎ、森林限界に近づくと後方の樹間から東駒(甲斐駒ケ岳とは伊那のひとは言わない)が見えてきた。気をよくして、頂上からの眺望に期待しながら、小仙丈も早々にして山頂への道を急いだ。と、その時ぽつりぽつりと肩に雨粒が落ちてきて、瞬く間に土砂降りなった…。しかし不思議なもので、「夢なんてこんなもんだ」などとは思わずに、どんな想像力も寄せつけない“山頂に立つ確かな感覚”を楽しむことができた。山頂は、遠くから眺める仙丈とは違って思いのほか狭くもあった。

仙丈ケ岳は伊那のひとの心を捉えてやまないふるさとの山である。たおやかにすそ野を広げる優雅な山容と、3つのカール(椀状の氷河地形)を抱え、豊かな高山植物群をもつことから、「南アルプスの女王」とも呼ばれる。「日本百名山」を著した深田久弥は、「日本アルプスで好きな山は北では鹿島槍、南では仙丈である。…ちょっと見ては気づかないが、しばしば眺めているうちに、次第にそのよさがわかってくる…。南アルプスの山々は連嶺の形をとっているが、そのなかで仙丈ケ岳は独立のおもむきを備えている。」と書いている。伊那のひとの気質に重なるものがあるように感じるのは私だけだろうか。伊那谷が暮色に覆われているなかで、中央アルプスに沈みゆく夕日を受けて、優しいときに鮮やかな色彩を放つ雪の仙丈は、ろうそくの灯に浮かび上がるデコレーションョンケーキを彷彿させると臼井吉見が書いていた気がする。伊那谷のなかで最も美しい光景の一つだと思う。

仙丈はどこか母親に似ている。可憐さと順応性、互譲性、過酷な自然に耐える力を身につけた数多い高山植物の生育地である。山のすべてが大きな水瓶となって豊かな森をつくりだし、清らかな水で伊那の大地を潤し、日本一おいしい“川下り米”の源泉にもなる。伊那谷に流れる悠久の歴史や、人々がつくりだしてきた佇まいや暮らしを、時に目隠しをしながら、時に励ましながら、見守ってくれた山である。仙丈には包み込むような優しさがある。

伊那に戻ってから18年間、仙丈がはるか遠くに聳え立っていたのは、時間と気持ちのゆとりを上手につくりだすことができなかったからである。上伊那は木曽地域に次いで医師数の少ない二次医療圏である。人口10万対医師数は長野県全体の62%であり、人口10万対病床数が75%であることを考えれば、医師不足の深刻さは喫緊の課題なのである。小児科勤務医についても同様で、もともとの少なさに集約化が追い打ちをかけ、そのままになっている。日本の医療は医療者の献身的努力(自己犠牲)によって成立する構造があり、上伊那地域にもその傾向が少なからずみられる。しかし、そこから逃げ出さないでいるのは地域への思いと、やや自虐的ともいえるような自己充実感があるからではないかと思う。窮地に立ったときにその思いが大きな力になる。

上伊那は大きな可能性を秘めた地域である。地域の未来を予測する指標とされる年少人口割合は、南箕輪村をはじめとして上伊那のほとんどの市町村が長野県のなかで最上位にランクされている。地域づくりとこどもたちが生まれ育つ環境に意識を向けることとは不可分の関係にあり、その環境を構成する要素として自然や風土、教育などとともに医療がある。しかし、上伊那地域は小児科医が少ないことに加えて、児童相談所や障害児医療施設などの小児医療に関わる資源も少なく、二重苦を抱えた地域なのである。それらを整備していくことは子どもたちに関わる私たちの責務ではあるが、少ない資源のなかでも効果的に小児医療を提供していくことも求められている。それには、競争的医療から地域包括型医療にシフトしていくことと、医療と保健・福祉・教育・行政と機能的に連携することが不可欠であり、この方向性は地域にとどまらない流れになっている。上伊那の現状が転禍為福のきっかけになったかのように、一歩先んじて自治体3病院などの協力や多職種の協働はすでにしっかりと動き出している。

今日も病院の小児病棟から、黄金色に染まった田園風景とそれを見下ろすかのように聳え立つ仙丈が見える。その景観はおそらく病院から望む景色のなかでは長野県一ではないかと思う。上伊那の小児医療もそうありたいと思う。

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長野県上伊那郡箕輪町大字三日町969-3